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2018年7月29日 (日)

雨から逃げて北シャンへ(その3:マンダレー~ラーショー線、に乗る前に)。

今回このラーショーにやって来たのは、以前2012年に当地に旅行に来た際、(まさかその後転勤で来るなどとは夢にも思わず)マンダレーからの列車を途中のシーポー(ティーポー)で下車してしまったため、末端部のシーポー~ラーショー間が未乗になっていたからです。まあそのお陰でナムトゥに寄り道したりも出来たので結果オーライではありますが。

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1910年時点のビルマ鉄道路線図。

このラーショーへの鉄道の歴史は古く、1898年にマンダレー側ミョーハウンから部分開業した線路は1900年4月にメイミョー(ピンウールィン)迄の開通を経て、1903年3月1日にはラーショーまで全通しています。

これは、沿線のナムトゥ・ボードウィンの鉱山から搬出された鉱石の輸送が一つ大きな目的だったのは間違いないのですが、もう一つ、ビルマを自国領とした英国は、雲南省との間に鉄道を建設し、マラッカ海峡を経由せずに中国にアクセスするルートの確保を狙っていたようです。一次資料には当たっていませんが、中国(当時は清国)との間で結ばれた「中英続議ビルマ条約」においても、そのような規定があったとのこと。
これが実現に向けて動き出したのは1938年、日中戦争が激化し、中国(中華民国国民党政府)を支援する英米両国の協力を得て、援蒋ルートとしてラングーンからラーショーを経て雲南省昆明までの間を鉄道で結ぶべく、昆明からビルマ国境の街、芒卡に向かう鉄道の建設が始められました。

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早朝4時半のラーショー駅にバイクで送って貰って到着。

滇緬(テンメン)鉄路と呼ばれたこの鉄道は工事全体の40%程度が進捗、1942年に日本がビルマを占領し、このルートが役に立たなくなるまで工事が進められ、昆明近郊の一部区間では線路は完成し、戦後一部区間は営業運転に供されたようです。しかし100km以上に及ぶ未成線の遺構が未だに雲南省内には残り、現地中国の方や、日本人の方でその遺構を訪問された方もいらっしゃるようです。驚きです。

後者の蔵重さんという方が滇緬鉄路について詳しく説明してくださっていますので、勉強させていただきました。

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手書きで当駅割り当て分の切符を売って貰います。

ともあれ、その当時、ラーショーから先の中国国境方面へ向けての工事が進められることのなかったミャンマー側の線路は、今もマンダレーからこのラーショー迄、1日1往復の列車が運行されています。運行時刻はラーショー05:00->21:15マンダレー、マンダレー04:00->19:05と、上り下りとも夜行バスで着いても始発には乗れず前泊を余儀なくされ、終点についてももう移動は困難となる、時間が限られているサラリーマンには少々厳しいダイヤです。
で、単なる乗り潰しであれば、ラーショー~シーポー間だけ乗ればいいのかもしれませんが折角ですので久し振りのゴティック橋も行ってみたいですよね。

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ディーゼル機関車が連結され、さあ、間もなく出発です。まだ真っ暗ね。

そんなわけで早朝4時、市内のホテルの周りにはタクシーもバイタクの影もなく、皆どうやって駅まで行くのだろう?な状況ですが、ホテルの兄ちゃんのバイクで辿り着いたラーショー駅には三々五々乗客が集まって来ます。

ひょっとしたらまだ先に線路は続いているの? とも一瞬思わせられるような先(北東側)の方からやって来た中国大連製2000馬力の強力DLが、Upper2両、Ordinary4両、貨車2両を連ねた編成の先頭に連結され、定刻5時、マンダレー行き132DN列車の出発です。

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塗装変更された赤胴車、増えましたね。こんな僻地路線でも。

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