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2018年11月19日 (月)

PNG出張終わり、帰ります。

10日あまりのパプアニューギニア出張を終え、Air Niugini PX392便でシンガポール経由でヤンゴンに戻ります。

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往路と同じPXのB767でシンガポールへ。

大規模会議終了直後ということで各方面行きのフライトとも完全に満席状態で、帰路便が取れず、1泊余計に滞在を余儀なくされた同僚もいるようでしたが、まあ貴重なポートモレスビーでの1日を過ごせたのではないでしょうか。
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町中にAPEC関連の看板や幟などが会議歓迎ムードを盛り上げていました。 

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これだけ見ると、普通の街並みなんですが。何となく西アフリカっぽい?

今回初訪問となったパプアニューギニアでしたが、首都ポートモレスビーは治安が悪いことで有名な街です。山賊が鉈持って襲ってくるとか。

日が暮れると、現地駐在の同僚もクルマを使っての外出すら控え、我々出張者も、残業後は事務所手配のマイクロバスの後ろから、警備会社の4WDが追走してホテルに帰るような厳戒ぶり。国のGDPの何割かを警備会社が産み出しているというような冗談もあるほど。ご家族連れで赴任してきておられる方など、さぞかしストレス高いことと察します。物価も相当に高いですし。

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海辺に中国の支援で新設された国際会議場、APEC HAUS。スペルが独特。

今回、APECという大国際会議を主催した昼間の街は、普段どおり市民がノンビリと行き交い、そんな危険な雰囲気もあまり感じられず、街並みもゴミ一つ落ちていないような清潔さ。不法占拠のバラックと住民を、国際会議を控えて政府が全部取り壊して街の外に遠ざけたため、という話しも伝わってきました。

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「WARA」は、水。

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「hia」は、ここ。

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「ワントーク」は、(部族語ではない)共通語としての英語(のような言語)。

それでも今回仕事で関わったPNGの方々、色々な決め毎が後手後手に周り、机上論で決めて綻びが出たような場面も多々ありましたが、皆さんニコニコしてフレンドリーで大変気持ちよく付き合うことが出来ました。

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これは、旧陸軍の三式戦「飛燕」でしょうか。博物館の前庭にて。

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「BAMAHUTA」は、さようなら!だそうです。空港入口にて。

帰りのPX便、ごく僅かの遅れで無事にシンガポールに到着し、ターミナルを移動し、UBの最終004便でヤンゴンに戻りました。
帰ってきたなぁ感、強いです。やっぱり2年を過ぎて、ここが地元・自宅になってきたのですかね(いや、インドネシアを捨てたわけでは全くありませんよw)。

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うーん。どっちに乗ろうか、迷うなあ。

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2018年11月 9日 (金)

(初)パプアニューギニアへ。

今日から少し長めのパプアニューギニア出張。
昨日8日朝にヤンゴンを出て、SQ997便でシンガポール、長時間の乗継を経て、こちらも当然初乗りのAir Niugini、PX393便でポートモレスビーへ。

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シンガポールからポートモレスビーへ、初搭乗のPXで。

機内食が意外と旨いとのネット情報のPX、エコノミーではそれほど美味しい!というわけではありませんが、パサパサのSQ(RGN-SIN)よりはずっとマシでしたね。

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PX393便の機内食。まあまあかな。SQのよりは美味しかったです。

機材は古いB767でしたが、シートTVでは日本の映画も有り(なぜか『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』だったのですが)、まあ快適に過ごせました。

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パプア史上最大の国際会議、APEC2018外相会合・首脳会合を控え、国中歓迎モードです。

この地域では特に治安が悪いというポートモレスビー、さあ、10日余り、少しでも楽しめるとよいのですが。

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一夜明け、早朝5時のポートモレスビー空港着。Air Niuginiの塗装、新しい政府専用機に似てませんかね。

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飛行機を降りてから入国審査へ向かって歩く通路にて。

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2018年11月 2日 (金)

泰緬鉄道跡を歩く(ビルマ側・北半分)。

モーラミャイン市街地に戻ってホテル泊、2日目の今日は北西側半分のうち立入り可能なエリアを探訪してみます。

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川を渡る部分の橋脚はなくなっていましたが、西岸側には立派な橋脚がそびえていました。

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こちらの倒れた橋脚には、機銃の弾痕が残っています。

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ちょっとわかりにくいかもしれませんが、橋を狙って英軍の飛行機から落とされた爆弾で出来たという、すぐ傍の集落内の大きな穴。

昨日と同様、ムドンの街で南へ向かう国道から東へ折れ、昨日のチャインセッチー方面へ向かわずに途中から南へ下ります。昨日と同様に1.5車線ながら比較的よく舗装された道路を走り、アナンクイン西方のレッポウ付近で線路跡と合流し、そこからは線路跡に沿って東へ。

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このアナンクイン近くの支流を渡っていた橋の橋脚上には、戦後に建てられた小さなパゴダが。

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地元の老婆と中年男性の案内を乞い、案内されるがままに靴を脱いで肘まで水に浸かって川や泥沼を越えて辿り着いたLonsi駅手前のウィンヨー川を渡る橋の橋脚と、その橋を狙って落とされた爆弾で出来た大穴、続いて昼食をとった食堂の女主人に案内してもらったアナンクウィン西方の支流を渡る橋脚、の上には戦後地元の方々によって小さなパゴダが作られていました。

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ラバオあたりからタンビュザヤ方面へ向かう車窓には、しっかりとした築堤が比較的よく残っていました。

さて、今日中にヤンゴンまで戻らなければならないので、先を急ぎます。この付近からタンピュザヤにかけては、ゴムのプランテーションの中などに築堤がハッキリとした形で残っていましたが、線路や枕木、幾つかの小さな川を渡っていた橋の橋台などは発見する事が出来ませんでした。

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タンビュザヤの博物館の少し南の踏切近くにあるパゴダの境内に建てられた慰霊碑。

そして最後、ビルマ側起点のタンピュザヤでは、通称ジャパンパヤーと呼ばれるパゴダの敷地内に設けられた「泰緬連接鉄道緬側建設受難者之碑」を訪問、犠牲になった俘虜や労務者、そして日本人関係者に手を合わせ、2度目の訪問ですが、The Death Railway Museumも再訪し、今回の旅の終わりとしました。

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午後の時間帯、博物館には大勢の観光客が訪れていました。自撮り大好きな他の来観客を入れずにC56の写真を撮るのも一苦労。

なお、御参考迄に改めて強調しておきますが、今回訪問した泰緬鉄道の沿線には、タンビュザヤ町の(博物館などのある)一部地域を除き、現在も治安面で問題があるとして外国人の立ち入りは要許可或いは申請しても許可されない地域が多々あります。

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分岐点の記念碑の前では映画?の撮影中でした。

そしてその要許可・不許可の状況も流動的で、すぐに変化します。
もし本記事をご覧になった方がこの廃線跡訪問を考えられる場合には、信頼できる旅行会社を通じて最新情報の収集と、政府当局からの許可の確実な取付けを大前提としていただけるようお願いいたします。

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分岐点に少しだけ復元された泰緬鉄道ルートとなる線路。PC枕木では色気はありませんが。

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2018年11月 1日 (木)

泰緬鉄道跡を歩く(ビルマ側・南半分)。

明けて朝、モーラミャインのバスターミナルからクルマで、南東のカイン州を目指します。
カイン州は1989年まではカレン州と称し、こちらの名前を耳にしたことのある方の方が多いかもしれません。住民の大半を占めるカレン族の指導部であるカレン民族同盟(KNU)は、1948年のビルマ独立直後より、即時の独立を要求して連邦政府と独立闘争を始め、その軍事部門であるカレン民族解放軍(KNLA)が闘争の中心となって来ました。(このあたり、手元の資料の継ぎはぎですので、専門の方から見ると間違いも指摘され得るかと思います。本稿の本題ではありませんのでご容赦ください。)

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セメント舗装ながらよく整備されたチャインセッチー郡内の道を南へ下っていきます。

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左パヤトンズ国境、右タンビュザヤ。この三叉路で泰緬鉄道ルート沿いの道と合流します。

2012年、KNUは民政移管されたテイン・セイン政権との間で停戦合意に至り、以降、従来は外国人の立ち入りは厳しく制限されて来ていたこの地域にも、徐々に立ち入りが許可されるようになってきました。

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泰緬連接鉄道路線図。 広池俊雄著『泰緬鉄道 戦場に残る橋』読売新聞社刊 折込地図参照。左上がビルマ部分。

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泰緬鉄道要図 岩井健著『C56南方戦場を行く ある鉄道隊長の記録』時事通信社刊 P117参照。

現在も、KNLAによって実効支配されている、あるいは行動している範囲では、時期により外国人の立ち入りが制限されたり、解除されたり、外国人といっても隣国タイからの陸路越境は許可されても、我々日本人などの第三国人の立ち入りが許可されない地域・時期があったり、等々、未だに流動的な状況にあります。

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この山並みを眺めながら、C56が走っていたのですね。

今回、一部地域への立入制限ありという条件付きではあるものの、このカイン州の訪問許可が下りたので、訪問してみることにしました。

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パヤトンズの国境管理事務所近くには、近年になってから敷き直したと思しき、モニュメント的な線路(跡)。

目的は、泰緬鉄道のミャンマー側の廃線跡巡りです。タイのノーンプラドックからビルマのタンビュザヤまで、先の大戦中に日本軍が俘虜や労務者を酷使して作り上げたこの414.9kmの鉄道の廃止は、1945年の終戦後ほどなくということですから、それから既に73年が経過しています。

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アンガトン駅跡と思われる広場。広場の前後の森の中には、粗目のバラストが線状に残り、ここに線路があったことを示していました。

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ビルマ側では戦後すぐ、46年頃には全てのレールを撤去したそうで、一部線路が現在も地元の足・観光路線として活用されているタイ側とは異なり、上述の事情もあり、趣味人や調査の手が入りづらかったミャンマー側の廃線跡については、現在までのところ書籍やネット上でもあまり情報を見かけることがありません。

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キョンドー駅東方のチャウンゼイン村には、2か所の沢を渡っていた橋梁の橋脚基盤が。

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いずれあらためて、より正確な情報を確認したうえでご案内したいと考えていますが、今日この時点では、この両日に立ち入ることが可能だった地域で見つけることの出来た、幾つかの泰緬鉄道の遺構をご紹介させていただくに留めます。 

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キョンドー駅跡と思われる開けた場所には、バラストと数本の朽ちかけた枕木、そして機関車を空襲から守るための盛り土と思われるものが残ります。

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上述のとおり、1943年10月の開通から終戦直後まで、運行されたのは僅かに2年ほど。その後46年頃から線路が剥がされて既に72,3年。手元には詳細地図もなく、航空写真でも痕跡を殆ど確認出来ない中、ホームなども設けられなかったであろう簡易な鉄道の痕跡探しは困難を極めました。

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本日の白眉。ラワ~アパロン間のザミー川を渡る鉄橋。1996年の洪水で流されるまでは、ガーターが残っていたのだそう。

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ガーターが残っていた頃のザミー川鉄橋の写真。タイ・カンチャナブリのDeath Railway Museumで売られていた絵葉書から。

それでも同行のT原さんが流暢なミャンマー語を駆使して地元の人に話を聞いたり、場合によっては案内して貰ったりしながら、草むらの中にバラストや枕木を見つけたり、藪をかき分けて抜けた先に鉄橋の橋台や橋脚などの遺構を見つけた時の驚きは言葉にできないものがありました。

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アパロン駅跡と思われる場所。この駅には、北部区間の中心となる機関庫・整備基地(鉄道第9連隊材料廠)があり、多数の引き込み線に加えて方向転換の為のデルタ線までが設けられた広い駅だったようです。現在はゴムの植林地。 空襲除けの土盛りはここにも残っていました。

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ここにも枕木の残骸が。70年以上も経っても、その姿を留めているもんなんですね。

先述のとおり、巷でたくさん紹介されているタイ側とは異なり、ミャンマー側の同鉄道の遺構の画像はあまり見たことがありませんので、人によっては貴重な画像になるかもしれませんね。

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アパロン駅南東側の橋の橋台。

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資材も十分ではない中、立派な橋脚を建てたのですね。

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